明治27(1894)年3月15日。田村駒の第一歩は力強く踏みだされた。場所は、大阪市東区横堀2丁目32番地。魚の棚筋西側。創業者の田村駒治郎27歳、実弟平松徳三郎23歳、希望に燃える青年たちであった。当初の業務内容は、駒治郎が勤務していた岡島合名会社の染色加工したモスリン友禅を大阪市内で一手に販売すること。駒治郎は岡島合名会社の工場責任者と兼任のため、営業はもっぱら徳三郎が受け持った。船場の商習慣であった、客を待つ「座売り方式」をとらず、商品をいっぱい背負って、出張販売を行った。
 
 駒治郎には勝算があった。モスリンをはじめとする洋反物は、必ず広く大衆に普及する。その流れが堰を切ろうとしている、いまこそ好機だ。そう確信していた。

 当時、モスリンの手染め友禅技術は完成度を高め、モスリンは和服生地としての地歩を固めていた。その用途は着尺にとどまらず、帯・襦袢・ふとん・ふろしきなどに広がっていく。大半を輸入に頼っていた生地も、各地で本格的な国内生産が開始されようとしていた。

 この年8月、日清戦争勃発。その前後の好況によって、それまで官需中心だった毛織物の民間需要が活発化したことも、駒治郎の追い風となる。

 まだまだ一般には馴染みの薄い洋反物。だがそれだけに、駒治郎の踏みだした一歩の先には、洋洋たる可能性がきらきらと広がっていた。